《in 実野里 フェイバリットガーデン》 
てんとうむしだ~って♪

かえるだ~~って♪

みねゆりかだ~~って  え?

みんなみんな 生きているんだ
ともだちな~ん~だ よ~っ♪  っと。
菖蒲の実野里さんで
今度の5/26(土)・5/27(日)の、ガーデンライブの打ち合せでした。
今にも、花開きそうなうん万株ものバラたちが一面に!
すでに咲いていたものもあった(^▽^=)
これ、「ジャクリーヌ・デュ・プレ」っていうんだお~
↓すんんごおぇぇえ(@’▽‘)素敵です

こういう、素朴だけど凛として、それでやさしそうな、一重とか、半八重咲きのバラがいいなあ(^▽^*)
そして、オーナーの方と今日初めていろいろお話させて戴いたんですが
とっても視野が広い方で
まさに!「パイオニア」です‥
ガーデニングを通じて、真の社会貢献を考えていらっしゃる方だと思いました。
とっての実のあるお話を聞く事ができました。
ライブ、楽しみだなあ~ (ノ^▽^)ノシ ~♪

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2件のコメント

  1. 美根さん、こんばんは~
    ご無沙汰しておりました。
    僕の書き込みに真摯なコメントを残してくださって
    本当にありがとうございます。
    ごめんなさい。
    まだ、美根さんのDJ聴けてないんです。
    というのは、朝が苦手なんです。
    病気の一つに不眠症があります。
    こんな時間に起きていますから、昼夜逆転生活なん
    です。
    主治医からは規則正しい生活を送るように言われて
    おりますが、なかなか難しいですね。
    日曜の朝、早起きして、美根さんの声を聞いて勇気
    をもらいたいと思っているのですが、出来ていませ
    ん。
    ごめんなさい。
    実は自慢するわけではありませんが、10年前から独
    学でドイツ語を勉強しています。
    僕のライフワークです。
    日本と同じく第二次世界大戦に大敗し、東西に分断
    され、また、再統一されたドイツはヨーロッパ最大
    の国家です。
    そして、日本のようにアメリカの顔色をうかがうこ
    となく、世界に対して大きな発言力を持っています。同じ世界大戦で大敗しながら、日本とドイツの
    間にこれだけ差ができてしまったのはどうしてなの
    か?
    そのことが大学の頃から知りたかったので、独学で
    学び始めました。
    今、ドイツ人で日本の大学で非常勤講師をされてい
    る方と、僕は彼に日本語を、彼からはドイツ語を
    学んでいます。こういう関係をタンデムパートナー
    シップと言います。
    タンデムというのは二人で漕がないと走れない自転
    車のことでお互いの母国語を教え合うことの例えに
    使っているのです。もちろん、無償です。
    また、僕は100年の歴史を持つ(公益財団法人)日独
    協会の個人会員でもあります。
    ドイツ語学習に欠かせないのはNHKのテレビとラジオ
    のドイツ語講座です。僕はこの講座を学んだだけで
    ドイツ語技能検定試験2級まで合格しました。ドイ
    ツ語圏の外国人と日常会話を話すことに支障はあり
    ません。日本人の多くが英語が話せないと世界では
    通用しないと勘違いしています。
    僕はクラシック音楽が好きです。
    美根さんがブログに書かれているお花の名前「ジャ
    クリーヌ・デュ・プレ」は20世紀を代表する英国の
    天才女流チェロ奏者でした。しかし、彼女は不幸に
    も26才の時に難病にかかり、42才の若さで亡くなり
    ました。その彼女の栄光と悲運の生涯を可憐なお花
    の名前にしたのでしょう。
    それはともかくとして、世界で最も権威のあるクラ
    シックの音楽祭に「ザルツブルク音楽祭」がありま
    す。この音楽祭をモーツァルト生誕の地、ザルツブ
    ルク(オーストリア)で1920年から毎年、7月下旬~
    8月下旬にかけて開かれている音楽祭です。この音楽
    祭を僕は健常者だった1990年に会社に無理を頼みこ
    んで母と行きました。大学でドイツ語を少しかじっ
    ていたのと、英語なら多少の会話力があったので、
    何とかなると思って行ったら、さあ大変でした。
    英語は世界標準語ではありませんでした。つまり、
    全然通じなかったのです。では、少しかじったドイ
    ツ語を使うと、もうお手上げになってしまいました
    。仕方がないので、筆談で買物をしていました。
    当時、EUは誕生しておらず、オーストリアの通貨は
    シリングというものでした。そこで目の当りにしたのは日本人観光客の音楽に対する無理解と、それに対するクラシックの本場ヨーロッパの人々の軽蔑の眼差しでした。あるオペラを聴きに行った時のことです。明らかに音楽に疎くパックツアーに入っていたから、オペラを聴きに来たということが見え見えのOLグループが私たちの一つ前の席に座りました。そのオペラはヴェルディというイタリアの作曲家が晩年に書いた大作「仮面舞踏会」でした。NHKが衛星生中継した程、その年、一番の話題作でした。私は
    この作品が好きで大学生の頃に一度、日本で生で観て大変感動した作品です。オペラは大変素晴らしいものでした。しかし、OLグループは最初からカーテン・コールに至るまで熟睡していました。私たちの隣に英国人の老夫婦が座っていました。そして、私にははっきりと英語で聴き取れましたが、「この日本の女たちは何をしにきたのか?ふざけている。日本人など所詮金儲けしかできない猿だ」と吐き捨てるように言っているのを聴き、同じ日本人として、とても恥ずかしかったことと日本人はやはり、その程度にしか見られていないのだという厳しい現実を体験しました。この音楽祭に出演する音楽家は世界
    で超一流のお墨付きをもらった人たちばかりなのです。残念ながら、器楽奏者でこの音楽祭に招かれた日本人はピアニストの内田光子さんと小菅優さんのたった二人だけです。明治維新以降、日本はヨーロッパからクラシック音楽を学び始めまし

  2. 明治維新以降、新政府は欧米に追いつく為に、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽部)を作り、滝廉太郎などの優秀な学生をどんどんドイツへ留学させ、クラシック音楽を吸収しようとしました。しかし、それは大変困難な作業でした。日本古来の音階は5音音階だったからです。5音音階とは四七抜きと呼ばれ、つまり、ファとシを欠く音階だったのです。日本国国家「君が代」は宮内省雅楽係の林廣守が作曲したことになっていますが、事実は違います。明治維新以降、欧米列強が公式な場で国家を演奏するのに日本には未だ国歌がありませんでした。これは大変恥ずかしいことでした。そこで明治政府はフランツ・エッカートというドイツ人を招き、国家の作曲を依頼します。しかし、これは海軍省の招きで来た人物であり、海軍省とライバル関係にあった文部省はサミュエル・ウェブという英国人作曲家に国家を文部省唱歌として作曲させました。従って、学校ではウェブの作曲した「君が代」を子供たちが教わり、対外的な式典の多い海軍はエッカートの「君が代」を使うという二つの「君が代」が存在した時期があったのです。そして、1893年になって漸く、文部省がエッカートの「君が代」を認め、現在に至っています。エッカートは日本古来の歌を収集し、5音音階を探求し、その成果を「君が代」に結実させました。大変困難な作業だったようです。当時の日本にはオーケストラなどなく、軍楽隊しかなかったのですから。しかし、そうしたエッカートの名前を表に出すことを嫌った明治政府の方針によって林廣守が作曲したことにされてしまいました。エッカートは後に朝鮮半島へ渡り大韓帝国の国家も作曲し、その地に骨を埋めました。
    このように日本とドイツは様々な紆余曲折を経ましたが、深い絆で結ばれているのです。
    しかし、そのことを知る日本人は少なく、英語より遥かに難解なドイツ語を学ぶ日本人の数が減少傾向にあることは嘆かわしいとしか言い様がありません。
    何か難しいお話をしてご迷惑だったでしょうか?
    だとしたら、ごめんなさい。

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