23日に、嵐山の西光院さんへ、久しぶりに参りました。
ご住職がいつも気にかけてくださり、絶妙な頃合いにいつも呼んでくださるんです。
本当に、私にとっては、まさに「駆け込み寺」といっても過言ではないです‥。
何度、助言を戴いたことか。
そこでのお話で、翌24日に、法然上人を偲び念仏を唱えながら歩く行事がある事を知り、
しかもその先導役を、ご住職が務められるということで!
5宗派総勢300名以上のお坊さんたちが、念仏をひたすら唱えながら歩くと。
「いぃぃいいいきますーっ♪」
と急遽参加する事に♪♪
わくわくしてたまらなかったんすけど、それと同時に歩く距離に若干の不安がよぎりました。
太秦の「西光寺」から、長岡京の「光明寺」まで。
だいたい16キロ程だと。でも、途中のアップダウンもあるし夜の西山あたりは寒いんかなぁ‥
‥でも、それ以上に法然上人の追慕行脚に参加させてもらうなんてめったに出来ない事ですし‥
防寒対策をして、いざ。(防寒のコツはライブで慣れている)
ここが、出発地の、太秦にあります「西光寺」。

周辺も、中もたくさんの僧侶の方たちでごったがえしておりました。
それから檀家さん達でしょうか、巻きずしとお茶を用意してくださっていました。
この行脚は、途中、2つのお寺に寄り、300名越のお経をあげて、
光明寺へ向かいます。
先ずは出発地西光寺にてお経をあげ、出発― 光明寺へれっつらゴー。

長岡京の光明寺には、法然上人の御廟、火葬塚があるのです。
拙劣ながら軽くご説明しますと‥
法然上人は、東山大谷、現在の知恩院付近で亡くなられたと言われていて
没後16年の時。
延暦寺僧徒が、東山大谷の法然の墓堂を破却するという事件が起こります。
法然上人の説いた教えは、全ての人々が「南無阿弥陀仏」を唱えれば救われるんだよ、というもので
当時としてはまさに仏教の改革者だったゆえに
旧宗派からは良く思われなかったとか、いろんな事があったみたいです‥。
その時、法然のお遺骸が、たくさんの教徒たちに守られながら、
粟生野、現在の光明寺まで運ばれて、火葬しその遺骨を安置して廟堂を建てたとされているそう。
そんなわけで、
この追慕念仏行脚は、その歴史を辿るものであり、歴史の再現、なんです。
その事を、前日のご住職のところで教えていただいていました。
知るのと知らぬのでは、雲泥の差ですね。
ロマン感じますよ~~ぉ
「南~無~阿~弥 陀~仏‥」ひたすらゆっくりと、唱えながら
夕刻の5時過ぎに出た行列は、
30分程だったでしょうか、嵐山の渡月橋のあたりではもう真っ暗に‥

なかなか写真がうまく撮れずに、前を歩かれるお坊さんを撮るに至りました
渡月橋を通る行脚列はそれは美しかったです‥。
嵐山から、松尾大社前を通り、、
そして第一の経由地の来迎寺にて、お経の大合唱!
みなさんえぇ声やなぁ‥つつまれて身震い、しましたもん。


‥隠し撮(笑)。白い息わかりますー?
(夜撮り、もうちょっと上手かったらな~ぁ。‥)

ここでは、おにぎりとお茶が振舞われました ごったがえしてます
すんごく美味しかったです‥。すんごく。

そして桂から物集女街道をひたすら、南へ
第2経由地の、来迎寺にて。(2か所とも同じ名前のお寺だそうです。)
ここでは、なんとぜんざいがふるまわれたんですよ~~
食欲がすご過ぎて撮るの忘れました。
そして蝋梅が美しすぎる!

ココから、ついに終点の光明寺へ。
さすがにお疲れ気味の若手お坊さんたちの中から
「うぉー 声出してこーぜー」 「おぉ~~」 (「南無阿弥陀仏」を)
といきなり、体育会系なカンジに。笑っちゃった

そして、22時前頃、光明寺着。


火葬塚かな、廟かな?‥聞くの忘れてしまったのですが
ぴりっと張り詰めた冷たい空気の中、厳粛な、そしてあらく力強いお念仏が境内にわーんわーんと響き渡る!
800年前の人々の気持ちはどうだったんだろう、とか考えると、感極まったし、
その歴史が今につながっていて、自分が今居て南無阿弥陀仏を唱えている事が
なんてすごいことなんだ!と。
ブレブレな写真でお送りしましたけど、
せっかくの経験を残したい一心で書ききりました!
歴史の追体験って、実はすごく大切なのかもしれない。
まさに「温故知新」だ
歴史の中から教えてもらわなければ、新しいものや、新しい考えなんて生み出せない。
そんなことを、ぼんやりとではあるけど、深く感じる事が出来た貴重な経験でした。
法然上人ありがとう。
ながーい文章読んでくださってありがとうございます。
ONE LOVE,
ONE SOUL.

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